個人ページへようこそ
外では皆が一様に大きな声で叫んでいる。なるべく人に聞こえるよう、張り裂けんばかりに。
飛び交う言葉は特定の宛先を持たず、ただ叫ばれているだけ。にも関わらず、常に自分に対して向けられているかのように感じる(ように作られている)。
確かに「私に向けた言葉」は求めているが、ここまで来るとあまりにうるさく、耐え難い。TwitterなどのSNSを見ている時の感覚は、治安の悪い公園や飲食店にいるときのものに近い。うんざりだ。
もうそんなことしか約束されていない場所は捨てて、庭を作ろうというわけ。「自由にお入りください」といった看板がかかっているような庭を。
自分自身そういった庭を見るのは好きだし、誰か、あるいは未来の自分が喜んでくれると嬉しい。
以下は個人的な分析と思い
SNS的世界が終わる原因
もとより単一のネットワークの力で、人-人の疎通に関する際限のない願いが叶うはずはなかった。
ブロードキャスティングの問題
問題の根は「ウェブ上の発言は常にブロードキャストになる」という点と、SNS的な「ネットワークの集約」という、人のいるところに人は集まる的な動きにある。
多くの人が「聞いてほしい(繋がりたい)」という願いを持つものの、流通する情報がブロードキャストである以上、聞かれる情報は優れた少数に集約される。当然評価も、優れた情報の源である数少ない送信元にのみ還元され、集約されていく。
大抵はあなたも私も不要。なんなら輻輳を避けるため、そのネットワーク上では口は噤んでおいた方が良い。
でも聞いてほしいし、聞いてもらわないと何者にもなれないし、退屈。
既に混雑を極めるネットワーク上でどうすれば聞いてもらえるのか。あふれかえる情報の中から欠損なく情報を伝えられるように、どんどん言葉や情報は圧縮され、切り詰められ、より聞き取りやすいものになっていく。誰にでもわかる短い下品な言葉。悪口や諍い。
どんどん聞くに堪えなくなり、最終的には現状の通り「私に向けた言葉がほしい」という願いさえ叶わなくなる。
クローズドなウェブ?
人々は見かねてクローズドなDiscordや、規約の口やかましい会員登録必須のWebサービスへと流れていく。さて、静かでクローズドな環境へ行けば解決するだろうか。
身近な例
静かで落ち着いた店や公園もすぐに人でごった返すし、人気者の集団は……ろくなことにならない。入口や集団がバレてしまうと終わりは免れない。
また、規約で縛られたプラットフォーム上でなにか楽しいことができるとは個人的には全く思えない。
なので誰にもバレずに仲間内で自由に愉快にやるしかなくなる。けどそれってもうインターネット卒業じゃないか。危ないからって火を捨てるのか?
ビジョン
分散ということを違う語り口で捉えたほうが良いのかも。非中央集権、自由ということは当然として、時制的な意味でも分散したい。
「単一の空間・時間を結果的に構成するようにノード間をメッシュで疎通させるSNS的ビジョン(AT-protocolとかnostrとかActivity-pub)」はあまり分散的ではないというか……これでは先に述べたクローズド化は止められない。
クローズドなコミュニティを自由にやるためにはそれらはあったほうがいいし、欲しいとは強く思う。けどそれは各々の、現実に置ける友好関係のようなネットワークセグメント程度のものでいいというか……。
むしろクローズド化に至る最も深い原因は時制的な問題で、今眼の前にある情報が全てじゃなくなったら、わざわざ単一のネットワークで人と常につながっていなくても全然いいんじゃないかと思っていて。
なのでイメージ的にはドアを開けて郵便受けを開けるような、RSS的な世界観のほうがベースとして存在していたほうがよっぽど良いんじゃないかという意識がある。あるニャ。
あるんだニャーーーーーーーーーン